Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

2

永澤:定義は、本居宣長が、定義してますよ。
永澤:でも、「あはれ」は日本語じゃないですか、ある特定の時期以降にしか出てこないボキャブラリーですよ。日本の。例えば、奈良時代とかに、「あはれ」って言葉ありますか? 例えば、それ以前の飛鳥時代とかに「あはれ」って言葉ないでしょう。
永澤:平安時代あたりからあるんですよ。
永澤:だから、本居宣長が言っているのは源氏物語な訳だから、源氏物語から出発してる訳だから、「あはれ」と彼が言っているそういうものは、何かあるとすれば、そういった平安の、そういった貴族の中にあった、享受されていた情緒と、それを表現している「あはれ」という言葉ですよ。
永澤:普遍なものもあれば、日本固有のものも、両方の側面があって。
永澤:いや、そうではなくて、本居宣長はそこで日本固有なものを伝承したかったから、あくまでテキストを、つまり源氏物語に限定した訳じゃないですか。で、それを受けて、藤原さんの主張が意味を持つとすれば、源氏を教えなくちゃならないっていうことですよ。源氏を、絶対に、テクストとして、小学校の子ども時代からはずしちゃいけない、という主張。私は別に、それはいいと思いますよ。
永澤:そういう一つひとつのことについては、教えたいと思った人が、そこに価値を見出した先生が、個人的に選んだりすればいい訳で、絶対にそれを選びなさいっていうのはおかしい訳ですよ。
永澤:そうですよ。
永澤:いや、言ってなくても、それはね。
永澤:それはね、後半の私の話というか、次の日とかになると思うんですね。つまり、全く現実的なパワーポリティクスっていう文脈において、この本が、社会的にどう流通しどう機能するかっていう話は、まったく別の議論です。そうなると、批判が生きてくる訳ですよ。この本が、どういうふうに結局行政の中に位置を占めたりするかっていう話を。
永澤:もう後半に入っていると思うんですよ。さっきおっしゃっていた矛盾の、最大の矛盾は、まさにそうですよね、そうすると、彼がいう教育っていうものは、成り立たないじゃないですか。
永澤:じゃあ、今度は擁護したいんですけれども、彼の立場はあくまで、近代以降の例えばフランスならフランス、統一されたフランス、あくまでネイションなんですよ、彼はナショナリズムなんですよ。だからこの場合、私が言いたいのは、彼は、日本語っていう、もう確定した標準語のレベルで止めておいて、そこで教えろっていうふうに言っているんですよ。で、あとは弱肉強食で、アイヌとか琉球とかの辿った運命を考えろとか言っているけど、これは他人ごとのように言ってるのは、ここは、まさに日本がやったことは他人ごとのように言っていて、だからその、既にもう今滅びてるものはいいんですよ。で、もう、この人から見れば、もう問題外なんですよ。何故かっていうとそれは、日本人として戦うための、つまり、アングロサクソニズムとかにつぶされないためには、日本っていう国家の枠組みで言語を立てていくしか無いじゃないですか。祖国にしても。だから、結局ナショナリズムにしかならないと言っている訳ですよ、私は、彼の立場は。で、彼は、それで矛盾は無いつもりなんですよ。あくまでも、日本国民として、アメリカとかアングロサクソニズムとかグローバル化に対抗して、つぶされないために必要なんだって言ってるんですよ、彼は。
永澤:全く一緒だとは言ってないです。だから、例えば侵略して来た時に、例えば沖縄の人が戦うときに、あくまでも祖国、彼が言う「祖国愛」っていうのは郷土愛ですから、っていうふうに彼が区別しているんですよね。だから郷土の、琉球のために、自ら武器を取って、悲惨なことになるにしろ、戦うに違いない、そういう気概というか、そういう意味でのパトリオティズムっていうのは、私が言っているように、偏狭なナショナリズムに一致するっていうのは私はもう、十分認めてるんですよ。その辺はわかります。
永澤:だから、機能としては・・・。
永澤:やっぱり最初に戻るんですけど、今おっしゃったことは、結局今まで何度も、言い方こそ違え、何度もあらわれて来た同じようなことに過ぎなくて、たしかに日本人の知的レベルがあまりにも下がって来たんじゃなくて、もともと低くて、低いまま何にも変わらなかったから、同じようにベストセラーになっているっていうのが僕の主張なんですけど。(一同笑)
永澤:でね、要するにこんなものが、売れたこと、売れ続けてること自体が、日本人の知的レベルが圧倒的に低い証拠なんですよ。ところが、これが非常に素晴らしいかのように、いまだに、第一線の、第一級の知識人の本としてすごい本でということで、すごいベストセラーになっているっていうことは、今まで繰り返されて来たことだと思うんですよ。だから、これが特に違う理由が、何なんですか、って最初に私が言ったことは、私の答えとしては、確かに非常にレトリカルな才能っていうのはあるかもしれないので、もろに、露骨に言ってきた今までの人とは違って、ある意味で非常にうまく言っている、ソフトに、アレルギーの非常に少ない、「ああ、素晴らしいイギリスジェントルマンだなあ」みたいなふうに言ってることだけが違うと思うんですよ。
永澤:それ以外に違いはないんじゃないですか。
永澤:それはひとつ前の時代の、公理主義ですよね。
永澤:だから、日本だけが辻褄あわせちゃってる訳ですよ。日本語で。それが宮永先生の批判で、ゲーデルの不完全性定理以前のままで、辻褄だけ合ってればそれでいいって思いながら、日本語の中で、でもいいですよ、批判してる訳じゃないですか。で、それに対して三入さんが、何らか正当な批判をしてくれないと、何にも進みませんよ、これから。
永澤:あの、質問なんですけど、初出一覧がここに2002年、2003年っていうふうに出てるんですけど、文庫本の順序でいえば、『国家の品格』という本の成功を、当て込んでその流れの中でこれが出されたっていうことに、ここでは言いませんけど、社会的文脈を考慮した戦略としてはある程度、あるんですよ。ただ、ここでは話しません。ただ参考までに、彼の中の整合性っていう意味で、『国家の品格』っていうのはまず書き下ろしじゃないですよね。つまり初出一覧の集成なのか、書き下ろしなのか、どっちですか。私まだ読んでないので分からないんですよ。
永澤:後ですね。
永澤:それは本を書いている時ですよね。
永澤:だから、全く同じことを何度も繰り返しますけど、西洋に行って、ある程度、まあ日本っていう集団の中ではそこそこ優れていたから、一人だけで行って、そこでアイデンティティの危機、それに幼少時代から色々あったと思うんですよ、彼の場合。で、その危機を自分だけで克服するっていう、そういう西洋の個のあり方まで到達することができない手前で、何となく、日本語っていう情緒的なレベル、そして彼が幻想している頃に戻って、それを、自分の治療のためのものなのに、まあ一般に公言して、こうしてベストセラーになってしまうっていうことは、もうこれまで何十人も繰り返されてきたことなんですよ。全くこの彼は、またこの一人。中途半端な一人。で、そうじゃない人がいたんですよ。漱石とか。わたしはもう、ダントツに漱石が好きなんで、漱石だけが、もう本当にこの事実に直面するっていうような、本当に批判的な精神で行っているような人の一人な訳です。彼だけじゃないんですけど、代表として出すだけなんですけどね。だから、彼は本当に漱石とか、朔太郎とかを個のレベルで捉えているんであればですよ、こういったズラズラズラってならべて、これを国語の教科者で教えましょうっていうような言い方をそもそもしない筈なんですよ。こんなことをやってる時点で、もう漱石を理解なんかできないし。で、もっと精神分析的にいうならば、彼は、彼の自己イメージとしては、実は品格を欠いてると思ってるんですよ、自分自身としては。何故かと言うと、自分が生まれたところは満州であって、そこに行って貧民街しか見出せなかったという、すごい決定的なトラウマがある訳です。これを解消しようとしてまた何度も行くんだけれども、それを解消できなかったことが、もう彼にとって拭い様もないトラウマで、それを保証しているものなんですよ。品格っていうかたちで。それはそうとして、で、私がまた漱石と並んで、そこにそのままぶち当たった時に、ナショナリティを本当に超えた人間として、安部公房っていう人がいて、対極にある訳ですよ。
永澤:安部公房っていう人は、たまたま日本に追随する人がいなかったから、ノーベル賞取れなかったけど、実はあの大江健三郎が、おれはもう、安部公房を真似しようと思ったけどとてもできないからあきらめた程の人で、米国科学アカデミーの名誉会員で、アメリカでも最も評価されている「日本人の作家」です。つまり、安部公房っていう人は、自分の幼い頃に、藤原氏がそこへと自身のルーツを探しに行ったその過去の状況とちょうど同じような状況で、祖国っていうものが雲散霧消し、満州で流浪した結果、本当に宮永先生が言っている「個の普遍」というレベルの文学を達成した。
永澤:で、藤原氏は到達できなかったから。だからそこをね。ただ、こういう議論が、日本の一般の知的レベルでは全く見えないんですよ。
永澤:だからその議論の地平で話しても、意味が無いってことなんですよ、私が言ってるのは。もう。その意味で、もっと読ませればいいと思うんですけれどもね。読んで欲しいと思いますけれども、知のレベルが共有されてないから、しょうがないですよ。だから宮永先生がいくら力説されても、そういう意味で個っていうものへと、到達してないんですよ。
永澤:だから日本人の中では非常に優れた人だっていうのは認めますけど、でも自分のトラウマとか、そういう自分に向かい合うっていうことからは避けてるんですよね。ちょっとさっき言ったように。おそらく。
永澤:そうなんですよ。そこまでの話にしちゃうと、困るんですけど、それはそう、少し精神分析的に言うと、実は、前の、少なくても一世代前から引き継いできたことがあるんですよ。つまり、エピソードとして、何ページっていうのは言いにくいんですけど、つまり、二人とも、藤原ていも、新田次郎も、非常に田舎の末武士の一番末端の階級の出なんで、実は農民階級との境界線上にあって。ところが、夫婦喧嘩のたびに父親の新田次郎は、「俺もお前も同じ郷里で田舎者なんだけど、お前は」、はっきり言って部落差別ですよね、これは。「お前はもう本当にど田舎の、本当に山の部落の出身だろう」って言ったらもう、本当にすごいもう当然のことですよね、母親はもう物を投げつけて、お互いにまったく感情の制御ができなくなったっていう喧嘩をいつも彼は、見ているんですね。幼少時代に。それが、彼の夫婦関係にも、世代間連鎖としてある程度出ているんですよ。例えば、彼は何でこんな愛人の話ばっかりしてるんですか、今のところは単なる幻想かもしれないですけど。つまり、似たようなね、喧嘩があるんじゃないですか。ものすごく分かりやすく言えば、コンプレックスなんですね。だから品格っていうことを強調しているということで、そこでその祖国の、つまり彼にとっての自分の故郷 に対する思いと、国っていうレベルのそれを保障しようっていうところが、情緒になってるんじゃないですか。ただそれに関しては、多分ちょっと生育歴的な話で、私は単純には同調できないし、あまり意味が無いとも思うんですけれども、私は非常にそれは感じましたね。
永澤:ちょっとなんかすれ違ってないですか。
永澤:だから確信犯っていうのは、齋藤孝みたいな人ですよね。
永澤:ええ。
永澤:仕掛人として、戦略家としての。他方、この人は本当にもっと素朴な人ですよね。
永澤:いや、明大教授です。
永澤:だってハーバードに行ってるのは、その時期ハーバードにいたのは佐藤学で、全然違うですね。まあそれはいいんですけれどね。
永澤:要するに、彼は利用されてしまうということなんですよ。
永澤:でも今の政権にとって、ある意味、ジャストフィットの人じゃないですか、教育で。

Copyright(C) Nagasawa Mamoru(永澤 護),All Rights Reserved.


© Rakuten Group, Inc.